これまでの意見陳述
第1回意見陳述 2005年9月30日(金)13:15~ 東京地方裁判所第627号法廷 | ||
2005年9月30日 東京地方裁判所民事第1部合議2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 マリック・ベルカンヌ 私は、24年前から、日本でフランス語を教えております。この仕事に、私は情熱を注いでおります。 この仕事は、人と人とを結びあわせるもので、相手を敬う気持ち、相手に対する信頼の気持ちをベースにしているからです。 この24年、私は、フランスや、ほかのフランス語圏に勉強に行きたい、あるいはそういう国々を訪ねてみたいという、何千人という日本人の生徒さんに、フランス語の勉強のお手伝いをしてまいりました。 その後、フランスで何年間か勉強をして、大きな収穫を得て、日本に戻って来られた方々もたくさんいます。科学、建築、数学から、音楽、ファッション、ガストロノミーまで、それはいろいろな分野にわたっています。 フランス語を教えるということは、私の職業であり、また私の人生そのものでもあります。そして、何百人もの生徒さんが通ってくる、語学学校を経営するということは、私の大きな責任であります。 さて、2003年の2月、石原都知事は、フランス語が数の勘定のできない言語であり、国際語としては失格である、という主旨の発言をおこないました。その後、2004年にも、さらに2005年10月にも、さらなる確信を込めて、同じ発言を繰り返しました。 このように、同じ発言がくりかえされると、石原氏は、フランスに対して憎しみを持っているのかと思ってしまいます。それはともかくこの発言は、人種差別であるばかりでなく、何よりもまず、虚偽であり、不当なものです! もしも、このような発言が見過ごされると、また別の人々が、「フランス人は、ろくに生きることもできない人々だ」などと、もっとひどい発言をすることにもなるでしょう。きちんと批判をしなければ、エスカレートしていくのです。 もちろん、石原氏は、プライベートな場では何をおっしゃっても良いでしょう。しかし、今回の発言は、多くの人が集まった公的な場で、しかも都知事として発言しています。知事として、彼にそんなことを言う権利はありません。 このとんでもない嘘の発言を行った時のビデオは、なんと、9ヶ月間も、東京都庁のインターネット・ホームページで公開されておりました。このページには、1ヶ月70万件のアクセスがあると言います。いったい何人の人々が、このビデオを見て、間違った感化を受けたことでしょう? 私たちがこの裁判を起こした2日後の7月15日、都庁は、このビデオをホームページから削除しました。削除させるには裁判までおこさなければならなかったというわけです。 私は石原氏が、どのような根拠で、フランス語が数も数えられない、知的に劣った言語だと主張しているのか、この裁判でぜひお聞きしたいと思います。数の勘定ができないフランス人など、一人もいません。数の勘定をせずに、社会は存在できません。すべての社会の基礎は、交換と商業にあるからです。デカルトから、パスカルを経て、ラグランジュ、その他、数多くのフランスの数学者が、世界の数学の歴史に残した業績は、誰も否定できません。 ここで、数学の分野でもっとも権威のあるフィールズ賞の2002年の受賞者であられるローラン・ラフォルグ氏から、この裁判を起こした私たちに届いたメッセージを読み上げたいと思います。
石原氏は、フランス語が国際語として失格している、とおっしゃる。これは嘘です!フランス語は、世界中の60カ国以上の国々で話されています。国連の公用語の一つです。国際オリンピックの公用語の一つです。国際郵便制度の公用語です。 一つの国、それは、歴史と、文化と、伝統により作られている社会です。それらすべてを結びつけているのは、言葉、そして、言葉によって伝達されるすべてのものです。 石原氏の発言は、フランスの国とフランス人、そして、フランス語でコミュニケーションをおこなっている世界中の人々を侮辱することです。この無責任な発言によって、石原氏は、現在、日本でフランス語を教えている組織が、劣った言語を教えているのだとして、その評価を傷つけ、その良好な運営、経営に害を与えました。 私は、フランス人として、フランス語の教師として、フランス語学校の校長として、また、文化の多様性と人間の尊厳を大切にする人間の一人として、石原氏が、フランス語の価値を日本人の目の前でおとしめてやろうとする目的でおこなったとしか考えられない、虚偽と中傷の発言について、謝罪することを求めます。 以上 |
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2005年9月30日 東京地方裁判所民事第1部合議2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 小畑精和 私は明治大学政治経済学部教授の小畑精和(おばたよしかず)と申します。仏語系カナダを中心として現代文学を研究し、フランス語とカナダ文化研究という授業を担当しております。 都立大学の改組に関連する会合で、「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合いが反対のための反対をしている。笑止千万だ。」との発言を昨秋石原慎太郎都知事がしたことにたいして、マリック・ベルカンヌ仏語学校校長らが損害賠償を求める予定である、との記事が今年の6月2日朝日新聞に掲載されました。 私はそれを読んで非常に驚き、また、悲しく思いました。このような誤解と悪意に満ちた発言を、フランス文学にも造詣が深いと聞く石原都知事がなさるとは考えられなかったからです。仏文関係者の同僚や友人たちとも話しましたが、信じられないとの声が多く聞かれました。 私はフランス文学から出発して近年ではカナダのフランス語で書かれた文学を研究しております。私が主に活動しており、役員もしている日本カナダ文学会の研究大会が6月11日(土)にちょうどあったので、他の役員の方々にこの件について知らせ、学会として何らか対応を考えてもらうよう申し出たところ、役員会をへて、当日の総会で満場一致で公開質問状を提出することになりました。それを受けて、6月末に会長名で公開質問状が内容証明で郵送され、8月に再度質問状が出されています。 この間、知人・友人からこの件に関して、様々な情報を得ました。フランスの新聞ル・モンドでも報道され、フランス人やカナダ人の友人たちからも憤りの声をたくさん聞きました。そして、この発言がなされたビデオが流されていることなど詳細を知るにつれ、ますますフランス語に携わる者として、侮辱され、傷つけられた思いが募っていきました。ベルカンヌさんらが準備している訴訟に加わろうと、こうして考えるにいたりました。 明らかな事実誤認に基づくこの種の発言を見過ごせないとの意見が、明治大学でフランス語を担当する教員の中でも強く、どのように意思表示をするべきか検討した結果、専任教員有志13名の連名で7月26日に事実認識を求めて都庁に要望書を提出いたしました。新聞・テレビなどマスコミ各社がニュースで取り上げてくれ、この問題に対する世間の関心の大きさを知り、また、勇気づけられもしました。 その要望書で、言語はそれを話す民族、文化、生活と密接に結びついていて、ある言語を誹謗中傷するのは、それに関わっている人全体に関わることであり、勘定の仕方を含めて、言語は多様であり、違いを認めることが国際理解の第一歩であることも申し添えました。 しかし、ベルカンヌさんたちからの公開質問状を含め、いずれにたいしても現在にいたるまで都知事からなんら回答はなされておらず、定例記者会見などで、フランス語に対して誤った発言をさらに積み重ねておられ、この発言を撤回なさる気持ちはまったくないようです。責任ある立場の人ですから、誤りは正して、範を示していただきたかったのですが、誠に残念でたまりません。 言語にはそれぞれの論理があり、どれが優れているといったことはないはずです。国際語として一番広く使用されている英語にしても、11(eleven)、 12(twelve)と変則的な勘定をします。しかし、13(thirteen), 14 (fourteen)などにならって、11をoneteen、12をtwoteenにしろとは誰も言わないし、不便だとも思いません。慣れの問題であり、それ以上に文化の問題なのです。 各民族好き勝手にやればよいと私は主張しているわけではありません。お互いの文化を認め尊重することの大切さを述べているのです。数に関して言えば、数学的、算術的必要のあるとき、あるいは異文化間でのコミュニケーションの際には共通の数字があれば充分であり、現にそれで国際社会は動いています。 現代では万国共通で実際の計算は算用数字(アラビア数字)を使って行なっています。フランス語使用地域でも例外ではありません。日本でも漢数字を使って数学をする人はいないでしょう。言語はそれに対して、科学的合理性だけでなく、文化的背景を持っています。数学では「1,2,3、、、」で事足り、「一つ、二つ、、、」といった数え方は必要なくとも、日本人の生活や、文化にはそうした勘定の仕方も必要なのです。そしてそれは日本文化の豊かさの表れのひとつではないでしょうか。 数の勘定できない言語などありません。まして、フランス語は、国連や国際オリンピック委員会などの公用語であり、立派な国際語でもあります。さらに、フランス本国のみならず、様々な地域で使用されている言語です。「フランス語で数が勘定できない」わけはないし、「フランス語が国際語」であることは明らかです。 「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格している」というのはある種の誇張として言われたのだとしても、そうした事実誤認に基づく発言が公の場で責任ある人からなされると、どのような影響を与え、どれだけ人を傷つけるものであるのか都知事はお考えになったことがあるでしょうか。 都知事は、フランス語のクラスは閑古鳥が鳴いていて、学生がゼロに近いところもあるように述べられたそうですが、都立大学でそのような事実はないそうです。私の所属する明治大学政治経済学部でも、中国語を外国語の単位として認めるようになって履修者が減ったのは事実ですが、一学年約1100名のうち今でも毎年およそ25%の学生がフランス語を履修しています。この数字はここ数年だいたい同じで、動いていません。他の学部、他の大学でも事情はだいたい同じようです。 都知事の発言を受けて、フランス語は難解で、国際社会で役に立たないから、学習する者が減っていると思ってしまう人は少なくありません。そうした先入観は、事実かどうかが問題ではなく、勝手に流布してしまうものです。また、そうした噂に付和雷同的に動かされてしまう人が多くいるのも事実でしょう。だからこそ、責任ある立場の者は、民衆に対して事実に基づいて行動する範を垂れるべく、責任ある言動をしなければならないのです。個人でどう考えようと勝手でしょうが、都知事は人を誹謗中傷するような発言は慎むべきであり、重要な立場に伴う責任を石原都知事はもっと真摯に全うしていただきたいと存じます。 知事の発言による誤解を解くため、私は教室で無用な努力を強いられています。フランス語は国際語であること、数を勘定するのが難しいかどうかは慣れの問題であることを、強調して説明しなければなりません。間違った先入観を訂正するのはそう簡単なことではないのです。そのことを石原知事にぜひ分かっていただきたいと思います。 また、私が専門とするカナダは「多文化主義」を掲げ、英語とフランス語を公用語とし、この二言語のみならず、先住民の言語、各移民の言語、それに基づく文化を互いに尊重することを社会の基に据えています。1999年には先住民イヌイットが多数派となる新しい準州(テリトリー)「ヌナヴット」を、北西準州から分離して、創設したことは記憶に新しいところでしょう。 そうしたカナダで、ケベック州を中心に全人口の約四分の一を占めるフランス系住民は、まさに「フランス語にしがみついて」自分たちの文化と伝統を守ってきました。多数派である英系住民もそれを認め、仏系住民を英語化せずにきました。カナダ人はそうした寛容さを誇りにしています。石原都知事の発言はそうした人々の努力をも愚弄するものではないでしょうか。 「カナダ文化研究」という講義で、こうしたカナダ社会の文化を私は日頃から学生たちに教えています。カナダのような連邦国家はもとより、国際社会においても、違いを認め合うことが相互理解には不可欠だとも話しています。 都知事の発言は私のそうした教育研究を根底から侮辱するものであり、私は居た堪れない思いでおります。フランス語にしがみついてこなければ現在のケベックは存在しえず、私の教育・研究もありえません。知事は、ケベックの人がフランス語を捨て、カナダが多文化主義を放棄することを、まさか望んでいらっしゃるわけではないでしょう。そうであれば、あの発言はぜひとも撤回していただかねばなりません。 他方、フランス語の授業でも、フランス語をコミュニケーションの道具として身につけることのみならず、言語の多様性を学ぶことにより、人間の精神活動の大きな可能性を触発することを私は目指しています。 ヨーロッパ諸語における、男性名詞と女性名詞の区別、単数・複数の区別、人称や時制による動詞の活用など、日本人には複雑で難解に見える事項もそれぞれの「論理」が背景にあります。逆に日本語は丁寧語や擬音語(オノマトペー)に複雑な体系を持っています。日本人はそうした分野に繊細な感覚を持ち、それが日本文化のバックボーンになっているのでしょう。言語の数だけそうした論理・体系があるわけで、それは人間の精神活動の広がり・可能性を示唆するものでしょう。言語の多様性に触れることにより、われわれの知的活動はより活性化されるものです。他者に触発されることなくして、自己の発達はありえません。 言語や文化の優劣を論じることに意味はなく、それは無用な誤解と、差別を生むだけではないでしょうか。よそからとやかく言われて変えるのではなく、不都合があれば使用者が修正して、変化していく、それが生きた言語や文化でしょう。 フランス語を欠陥言語だとし、違いを認めようとせず、事実誤認に基づいて、「フランス語にしがみついている手合いが反対のための反対をする」といった都知事の発言に、私は非常に傷つけられました。間違いを認めずに、強弁を繰り返す知事の態度には憤りさえ感じるようになっております。 「そうしたものにしがみついている手合い」の一人といたしまして、この発言が石原都知事のような文学者、言語表現に携わる方からなされたことが、誠に残念でたまりません。 繰り返しになりますが、石原都知事による誤解と悪意に満ちたフランス語蔑視発言により、フランス語にしがみついている私の名誉は大いに傷つけられました。また、多様性を認めることを基とするカナダ社会、特に仏語使用のカナダ文化を研究する者として、自分のしてきた教育・研究が全面否定された思いでおります。都知事という責任ある立場の方が公の場で行なった影響力から鑑みて、知事の発言により私が被った心の傷の深さ、知事の発言が引き起こす間違った先入観を是正するための労力は計り知れません。 どうか、事実を認め、発言を撤回し、謝罪していただきたいと存じます。 以上 |
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第2回意見陳述 2005年12月2日(金) 10:00~ 東京地方裁判所第第627号法廷 | ||
2005年12月2日 東京地方裁判所民事第1部合議2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 西川 直子 1 私は長年大学においてフランス語・フランス文学等の専任教授をつとめ、現在も二つの大学で非常勤講師として講義・演習の授業を担当し、語学・文学の教育の任に当たっております。フランス語・フランス文学の教育に携わる一教員という立場から、意見を申し述べたいと考えます。 2 第1回口頭弁論で既にマリク・ベルカンヌ先生、小畑精和先生が述べていらっしゃいますように、また多くの識者が指摘していますように、「フランス語が数を数えられない言語である」という認識は、まったく間違っているということをまず最初に申しあげたいと思います。 おそらくは石原都知事がフランス語を習得される際に困難を感じたことからくる誤解でありましょうが、それは、たいへん幼稚とさえいえる部類の誤解であります。フランス語を学ぶ者なら誰でも知っているように、フランス語の数詞には20進法や60進法の考え方が残っていてやや複雑な数え方をする場合があることは事実です。しかし、そのことから「数が数えられない」という決め付けを導きだすことは、通常の思考力の持ち主なら絶対にしないことは言うまでもありません。 3 そもそもフランスは、デカルト、パスカルを始めとして、ガロアなど史上名高い数学者を数多く輩出した国、「フランス語の擁護」委員会副会長マルソー・デシャン氏も指摘するように(甲第5号証の2)、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞受賞者を同時代人の中から10人近くも出している国、世界中で計測基準となっているメートル法の生みの親である国です。フランスに関するそのような事実の一つでも知っていましたら、「フランス語は数が数えられない」などという暴言が出てくる筈はありません。 4 地上の言語を全て検討したわけではありませんが、おそらく数を数えられない言語は存在していないと思われます。人間の生存にとって数は必要不可欠な観念である以上、コミュニケーションを行う言語には、どのような特殊な形であったとしても数の数え方が備わっているはずです。 言語は人間の思考の発現として、また思考の手段として、人間が人間であることの証を担うこの上なく重要な文化的産物であり、それは各民族・国家の歴史を通じて、長い時間をかけて形成されてきました。現在ある各言語のあり方は、歴史的に形成されてきた結果なのです。 そのように言語というものは、ありのままの姿で尊重され、敬意をはらわれるべきものです。さらには、今までの歴史において華々しい文化的活動の記録をもっていない国の言葉であっても、言語の尊厳というものは等しいものであることをここで強調しておきたいと思います。 5 他の言語と異なっている、比較してみるといささか複雑である、このようなことがなぜ「非難」される理由になるのか、それは全く理解に苦しむ事態です。特異性や多様性は、人間という存在を把握する方法をより豊かにする興味深い事実であると評価されこそすれ、決して侮蔑や非難の対象となるはずのないものです。たとえ、数え方が少々特殊であったとしても、それをもって「数が数えられない」などと決めつけることは、間違っています。 そのうえ、そのような誤解に基づいて「それゆえ当該の言語が劣っている」という意味の言説を表明するなどということは、良識と知性を重んじる社会において人がとるべき態度ではありません。まして、都知事という要職にある公人には許されないことです。公人が虚偽をあたかも事実のごとく発言することがあってはならないのはもとよりですが、さらに、言語や文化を尊重し、その多様性を認めるという観点からも、都知事の発言は認められるべきものではありません。 6 現代の民主主義社会においては、多数の民族・国家の文化の多様性を認め合うという態度は、共同体から個人にいたるまでの各階層において行動指針の基本になっています。子供たちの教育はそのような観点のもとに行なわれているはずですし、大学における真理追究の研究や教育も、文化の多様性の容認という基本のうえに成り立っています。 その点からして、都知事のフランス語に対する間違った認識、および、その誤解に基づく他民族の文化・言語への不当な蔑視を放置しておくことは、その間違った認識と文化的不寛容を容認するという過ちを犯すことになると判断されましょう。真実をあくまで求めること、文化や言語への尊敬を忘れないことを教える立場にある教育者としての私にとって、都知事の発言を放置することは決してできません。東京都の首長という多大な権力と影響力をもつ都知事は、真実に基づいて発言を撤回するべきです。 7 ところで、フランス語に関する都知事の誤解について申しますと、数の数え方に関する認識のみならず、フランス語は「国際語として失格している」という認識もまた、間違ったものであると指摘せざるを得ません。 フランス語を常用している人間は、一説によると世界で1億7千万人にのぼると言われています。それに加えて母語とあわせてフランス語を使用する者、学習し研究する者の数は、さらにその10倍以上にも及ぶことになるでしょう。 そのように全世界で使用されているフランス語が、国連諸機関の公用語、オリンピック競技大会の公用語、各種国際会議の公用語として認められていることは、多くの人が知っている紛れもない事実です。 したがいまして、この点における都知事の誤った認識も速やかに訂正していただきたいと要求いたします。まして、国際親善・多文化共存を旗印とするオリンピック競技大会の候補地として名乗りを上げようとしている東京都であれば、なおのこと、このような誤った見解を表明して訂正しようともしない首長を擁していることは、矛盾このうえない事態であると申せましょう。 8 都知事という立場は、たいへん大きな権力と影響力を持っています。職務上そのように大きな力を付与されている人物が、都知事としての職務を遂行する公の場で、公人としての立場から発した言葉には、庶民のおしゃべりとは較べようもない責任が伴うのは当然です。庶民のおしゃべりの次元であれば他愛ない「冗談」ないしは、勢い余った「失言」として大目にみられ免罪されることであっても、公人が虚偽をあたかも事実のごとく発言することがあってはならないことは言うまでもありません。公の場での公人として発言が重大な事実誤認とそれに基づく他者への誹謗・蔑視を含んでいる場合は、公益の面からそれを公の場で正すことが求められて当然です。 東京都は自他ともに許す国際都市として、世界の主要都市と友好協定を結んでおりますが、フランスの首都パリとも姉妹都市協定を締結しております。そのような状況にありながら、都知事のフランス語に関する暴言を放置すれば、東京都が国際親善・多文化共存の理念を無視していることを内外に喧伝する結果になりましょう。それは、国際親善を願う都民ひいては日本国民の公益を損なう結果となり、決して許されることではありません。 9 世界のあらゆる国々へと精神を開くことが当然要請される国際都市東京において、その首長の口から、フランス語は劣った言語、国際語失格の言語であるという誤った発言がなされることは、今後の日本や世界を担う将来の人材を育成するうえで、大きな弊害を生み出します。様々な知識や判断力を身につける途上にある多くの若者においては、それが誤った見解であるということを見抜けないで、都知事の発言であるが故に信じてしまう可能性が十分に考えられます。この謬見を正す機会がないまま、若者たちがフランス語を学ぶことを避けてしまう、フランス語への誤った偏見を持ち続けてしまう、さらには外国語一般を学ぶ必要性を感じなくなってしまうということは、日本の文化の将来、日本国民の世界への貢献を考えたとき、大きな文化的損失となってしまいます。 10 たとえば、現在、途上国援助を考える上でNGOの活動を無視することはできません。わが国の若い人たちもその分野で大いに活躍をしております。その方々の切実な実感として、英語一辺倒では途上国援助の実際面の活動が十分に行なえない、その土地で話されている言語の習得が必要であるという意見をお聞きする機会が数多くありますが、その代表としてまずフランス語が挙げられることが多いのです。 これは一例にすぎませんが、世界に占める言語人口の多いフランス語は重要な国際語であり、学ぶ価値と必要性を十分に有しているという真実を多くの若者たちに知ってもらうことは、日本人の世界への貢献を視野にいれた時きわめて重要な事柄となることを述べておきたいと思います。 11 それと同時に、フランス語を学ぶ若者の数が減少するということが生じますと、現実問題として、フランス語の授業が減る、フランス語の教師が必要とされなくなるという重大な事態に発展しかねません。現在、大学の語学の授業は多くの非常勤の教員によって支えられているという状況にあります。フランス語受講者が減少するということは、常勤教員はもとより、特に社会的に弱い立場にある非常勤教員の職場が奪われるということを意味します。国民の将来の文化度や社会貢献度を損ないかねない、また、教員の生活を直撃しかねない望ましくない事態が、権力者の誤解から発した暴言によってもたらされるなどということは、絶対にあってはならないことです。 12 さらに申しますと、「数も数えられない国際語失格のフランス語などにしがみついている手合い」「笑止千万」として嘲られたフランス語・フランス文学の教師としまして、私は職業上の名誉感情を不当に傷つけられた思いを深くいだいております。ひろくフランス語・フランス文学・フランス文化を講じる教員を愚弄したこの名誉毀損の発言に関して、都知事には謝罪をしていただきたいと強く思います。 13 国内のマスコミ各社による多数の報道はもとより、ル・モンド紙やヘラルド・トリビューン紙で取り上げられるなど、都知事のフランス語発言は国内的にも国際的にも関心を呼んでおります(甲8号証~甲26号証)。裁判官におかれましては、世界がこの訴訟の行方を見守っているという事態を正確に把握されまして、真実をもとめ、他文化への尊敬と多文化共存を願う私たち原告の思いを汲み取ってくださったうえで、厳正な判断を示していただきたいと、心から要望いたします。 以上申し述べましたように、都知事は公人であるという責任を十分に自覚して、フランス語に関する事実を正しく認識し、不当な発言を撤回し、名誉毀損への謝罪をおこなっていただきたいと存じます。古人も言っております、過ちてこれを改めるに躊躇うことなかれと――。 以上 |
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2005年12月2日 東京地方裁判所民事第1部合2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 大石 高典 1 私は、フランス語を用いて、フランス語圏アフリカで調査研究を行う者として、またフランス語を学ぶ者として、石原慎太郎東京都知事がフランス語について発言された内容について意見を述べたいと思います。 2 石原氏は、再三にわたって「フランス語は数が数えられない言語だ」という主旨の発言をされています。私はこの発言が、同時代に生きる人間が現に使用している1つの言語としてのフランス語に対して、なんら本質的内容が伴っていない単なる中傷を行ったものである、という点で非常に問題であると思っています。「…語は数が数えられない言語である」というレトリックは、フランス語に限らず、他のどのような言語に対して用いるにも不適当な古い時代のものであり、この表現は、標的とされる言語を大切にしている人、使用している人を深く傷つけます。 3 石原氏は、不必要に、また過剰に「フランス語」というラベルをけなすことで、日本の人々にフランスやフランス語圏の人々に対する否定的な感情を植え付け、煽ろうとしているとしか受け取れません。世界規模で、日常的な多文化状況への認識が進んでいる中で、石原氏が流言飛語の類を使った古い人心操作の方法にいつまでもしがみついているのは、国際的にわが国を代表する自治体である東京都知事の態度としてふさわしくないだけでなく、滑稽ですらあると思います。 4 私は、人類学を専攻する京都大学の大学院生として、仏語圏アフリカの一つであるカメルーン共和国(Republique du Cameroun)で調査研究を行っています。 カメルーンは、200以上の民族集団によって構成される、アフリカでも指折りの多民族国家です。過去にフランスとイギリスの植民地であったため、公用語はフランス語と英語の2つですが、国民の多くがフランス語使用地域に居住しているため、出身が異なる人々の間ではフランス語によってコミュニケーションがとられることが殆どです。多くの人々にとって、自民族の言語以外に、フランス語は地域共通語(lingua franca)として社会生活上必要不可欠なものとなっています。 また、国内では英語圏と仏語圏の人々の間に今でも潜在的な対立があり、政治上大きな課題になっています。 以上を踏まえれば、石原氏の「フランス語は国際語として失格である」という発言は、カメルーンをはじめとする、フランス語をめぐって複雑な歴史状況を有する国や地域の人々への配慮に欠けた、不適切なものであったと言わざるを得ません。 5 私は、「…語は数が数えられない言語である」というレトリックは古いと指摘しました。というのも、この手の異文化否定、人格否定の言葉はかつての植民地主義の中で、植民者から現地住民に対して日常的に使われていた、あるいは現在もそうであると考えられるからです。 私がつき合っているカメルーンの人々は、自らがフランス語話者(francophone)であることにアイデンティティと誇りを持っていますが、それは彼らにとってフランス人に代表される西欧「白人(le blanc)」に過去に蹂躙された、文化を否定されてきた、という劣等感の積み重ねの裏返しでもあると私は考えています。日常生活の中で、フランス語が「より上手く」話せること、書けることが他者より優れた「文明人」の証として強調されること、逆に「ろくにフランス語ができない」という言葉が、実際の出来不出来に関わらず、相手へのけなし文句になるのです。 このような観察事例から読み取れるのは、彼らの現在のフランス語使用の中に、植民地時代にフランスが持ち込んだ言語帝国主義的な価値体系が隠し難く埋め込まれているということです。そこでは「文明(civilisation)」の象徴であるフランス語は、独立後も長らく文化のヒエラルキーを測定する上で絶対的なモノサシであり続けてきました。そして、そのような状態からの解放の契機は、未だ与えられていないのです。 フランス語ができるかどうかによって、文明か未開かの踏み絵を踏まされ、フランス語に引き比べて自らの言語を否定され続けてきた人々に対して、今改めて、その「フランス語」すらも「数が数えられない言語だ」という言われなき否定の言葉が、彼らが新鮮な気持ちで「文明国」だと思っている日本国の首都長官から浴びせられたとすれば、それはやはり彼らとその固有の文化に対する二重の意味での侮辱であり、存在否定の言葉とならざるを得ません。この点において、私は石原氏に対して強く抗議します。 以上により、東京都知事である石原氏に、自らの発言の問題点を認め、誤りを訂正していただくとともに、フランス人だけではなく文化・社会生活上の必要によりフランス語を使用している全ての人々と、それに関わる研究者の1人である私に対しても、謝罪の意を表していただきたく思います。 以上 |
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第3回意見陳述 2006年2月3日 10:00~ 東京地方裁判所第627号法廷 | ||
2006年2月3日 東京地方裁判所民事第1部合2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 オディール・デュスッド 私は、20年前から家族で日本に暮らしています。はじめ、獨協大学、学習院大学、東京女子大学でフランス語の非常勤をつとめ、東京大学を経て、現在、早稲田大学文学部でフランス文学を教えています。私の3人の息子たちは、みな、日本で生まれました。私と私の夫は、日本の教育を信じて、息子たちに日本の公立学校で勉強させてきました。 今回、石原都知事の発言のなかで「フランス語では数の勘定ができない」とされた点について、私は、あまり長々と申し上げないことにいたします。それよりも私が申し上げたいのは、石原慎太郎氏の外国文化や国際語についての考え方がきわめて危険である、ということです。人間の生活の価値、あるいは人間相互の関係は、一個の家族から世界全体のレベルまで、もっぱら数字によって、効率性や金銭関係によって決定されるものなのでしょうか? この問いに対して、「たしかに芸術、文化、学術の交流も必要だけれども、そのためには、みなが知っている一つの言語さえあれば、それぞれの国民のもつ文化をどこにでも伝えることができるではないか」と答える人もいるかもしれません。しかし、とりわけ哲学、文学において、翻訳というものは、それがいかに素晴らしい翻訳であっても、オリジナルの影、作り替えにすぎません。石原氏はバルベー=ドールヴィリーを愛読しているとおっしゃいますが、もしも氏が、これをフランス語そのもので読むことができたら、この作家をもっともっと高く評価なさるであろうと私は信じて疑いません。 ひとつの言語は、ある人間集団の思考、感性、世界観そのものを映し出すものです。フランス語が今なお国際語としての地位を保ち、18世紀、19世紀以来、ヨーロッパの全地域で話され、読まれてきたのは、デカルトや啓蒙哲学者たちのような思想家が、人間の思考のための作業概念をいくつも考案、提唱し、それが西洋の知的、政治的、経済的な発展に大きく貢献するものであったからです。いかなる言語であっても、その習得をつうじてこそ、人は、自分と異なる文化、異なる思考を身をもって理解することができるようになります。とりわけフランス語を習得することによって、これまで一世紀以上にわたって日本が受け入れてきた西洋文化を、その深い部分で照らし出すことが可能となります。 そればかりでなく、ひとつの外国語を身につけることで、私たちは自分自身の文化に対する新しい視点を得ることができ、母語である自分自身の言語の機能もよりよく理解できるようになります。こうして、物事に対する問いかけや視点を多様なものとするため、そして、自分自身の国が世界の多様性のなかでどのような位置を占めているのか、よりよく理解するためには、少なくとも一つの外国語を学ぶことが必要になってきます。 私は、教育が果たすべき役割とは、利潤の追求とは別のところにあると考えています。外国語の教育・学習はは、まさに、これから社会の一員となる人々に、知的、道徳的な広い視野をもってもらうよう、導くことができるものなのです。将来、社会に出て、外国の言語や文化と深い接し方ができるようになるため、その基礎的な教育を受ける機会と時間の余裕は、学校と大学でしか得られません。 日本中、どこでもそうとは限らないかもしれませんが、これまで私は、保育園から高校まで、息子たちが通った東京の区立や都立の学校で、さまざまな国の文化や、英語以外の外国語に対する興味関心が保たれているのを見て、とても嬉しく感じてきました。たとえば、私の息子が通った保育園には、十一の異なる国籍をもつ子供たちがいましたが、運動会の時、その十一の国の国旗が、すべて大切に掲げられていました。また、私自身、ある小学校に招かれ、半日いっぱい、フランス語の紹介をしたこともあります。私の息子たちは、東京都立の高校で、ドイツ語やロシア語の初歩を学ぶことができました。その選択肢のなかには、もちろんフランス語も含まれていました。息子たちは日本で生まれ育ちましたが、日本語と同時にフランス語の方もしっかり身につけてもらうため、私は、彼らが6歳の頃から、フランスの通信教育の教材を使って、毎日20分ずつフランス語の勉強を一緒に続けました。母語であっても、こうして外国に住み、外国の学校に通わせる場合は、親も子も、大変な努力をするのです。 人間が成長し、社会人になるまでのあいだに、精神の広さや深さ、それぞれの人にとっての文化的財産を獲得するための最良の手段である外国語教育の意義を、石原氏独特の価値観にもとづいて、もっぱら効率性を理由として軽視することは、きわめて有害です。それと同時に、この種の発言が都知事の立場からなされたことにより、とくに若い人たちのあいだに、外国語に関する誤った見方が定着してしまうのではないか、と非常に心配です。石原氏自身による発言の撤回が、ぜひとも必要です。 以上 |
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2006年2月3日 東京地方裁判所民事第1部合2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 小林 史高 私はワインを販売し、またワインについて教えている人間です。 対象としているのはフランスワインをはじめとする世界中のワインです。 ワインは単なる美味しい飲み物というばかりでなくその生産地の歴史文化をその背景に色濃く付帯しているもので、ワインを飲む、ワインを語るといういことはそのままその生産地、生産国の歴史文化に触れ、語ることといえます。 私はそうしたワインを仕事として扱うことにより、ただの商品としてばかりではなく他国の歴史文化、美学、価値観をも日本の人たちに伝えることができると思っています。 つまり私は単にワインを売ることや単純な知識を伝えるばかりでなく、生産国との異文化交流、異文化理解に役立ちたいという気持ちで仕事をしているわけです。 世界中のさまざまな文化はわれわれ日本人の文化とは微妙に、または大きく違っており、しかしそれぞれに固有の価値とすばらしさを持っています。 その違いを理解し、敬意を払うことによってこそ、異文化に属する人たちが我々日本人の歴史文化を理解しようと努力し敬意を払ってくれるものと信じています。そしてワインを売り、それについて教えるという仕事はその手段に充分になりうると考えています。 さて、このたびの石原都知事の暴言は自分の立脚する文化以外を認めようとしない、大変偏狭な観点からなされています。フランス語は数が数えられない言語などという論説が誤りであることは論を待つ必要もありませんし、また過去、この法廷でもさまざまな人がそれを論証していますのでここでは私は触れるつもりはありません。それよりも私は都知事という公的な立場の人間のこのような愚かしい発言が私に及ぼした実害について述べたいと思います。 ある文化が最高の位置にあり、多文化が「下」で「野蛮な」「未開」のものであるという考え方は過去世界中に多くの被害を及ぼしてきました。我々日本人にとって近い事例でいうと太平洋戦争のとき、日本の軍隊が日本国民に強いた思想もその良い例です。何者かを侵略し、あるいは苦しめ、殺す際にその行為を正当化する上でこうした思想はまことに都合の良いものといえましょう。 異なる文化に属する人間がこうした考えに基づいて対峙したときそこには暗い未来しかありません。 私は日頃からそうしたことに仕事を通じて対抗していきたいと思っています。 ワインは食品です。しかも大変に美味、そして健康的で世界中にその楽しみを知っている人が大勢います。そして美味しいものが並んでいる食卓には世界中どこでも笑顔があります。 コミュニケーションを円滑にするために、食事をともにするというのは、たとえば恋人たちがレストランで一緒に食事をするというレベルから始まり、学生の部活動の合宿、さらには国家の代表同士が晩餐をともにするケースにいたるまで人間が文化を築いてから今まで少しも変わらずに行われてきたことです。中世ヨーロッパの貴族社会では自宅に人を招いて同じ皿から食物を取り、同じ瓶からワインを飲むということは相手に対して「毒を盛っていない」という意思表示であり、すなわち敵ではないことを意味していました。日本でも「同じ釜の飯を喰う」という表現が生きていて、そこにはある種独特の「同士」への感傷的とも言える愛情が含有されているといってよいでしょう。ワインはそうした席での一種の世界共通語ともいえます。そしてワインのそうした位置を築いたのがフランスワインであることには誰も異論は唱えないでしょう。 私はフランスワインを多く扱う人間として、たびたび彼の地を訪れ、われわれ日本人にとってのワイン、日本の食卓におけるワイン、日本を含む世界中のワインについて意見を交換し、またそればかりでなく食文化をはじめとするお互いの歴史文化全般について語り合い、酒を酌み交わしてまいりました。そして日本で異文化理解の重要性を、ワインを売ること、ワインについて教えることを通じて伝えてきたつもりです。 異文化を理解することは、完全には不可能なのかも知れません。 しかしこうした不断の努力の積み重ねが、異文化間で何かのトラブルが起きたときに、両者に争いが生じたときに、その被害を最小限に抑える有効な力になりうると信じています。世界中の権力者たちが頻繁に食事をともにすればもっと殺し合いが減るのではないかとすら思われるくらいです。 私は大げさに言えば、仕事としてワインに接することにより国際交流、異文化理解、さらには世界平和に貢献したいと思っています。 石原都知事のかの暴言は、そうした観点とはまったく逆の価値観に立ってなされています。都を代表する公的立場の人間がこのような発言をするということは、異文化の人たちに石原都知事のような考えが日本では一般的な考えなのだと誤解させる可能性が大いにあり、また日本人の品格や教養を疑らせるに充分であろうと思われます。そのため私はフランス人ばかりでなく異文化の方々に会うたびにこれことを話題にし、私はまったく違う考えであるということ、あの暴言に怒りをもっていること、そしてさらに日本には私と同じ気持ちであろう人々が多くいるということを意思表示せざるを得なくなりました。 言ってみれば私たちがせっかくこつこつと積み上げてきた積み木を横からなぎ倒したのが石原都知事の暴言なのです。 それはまさに私にとってある種の傷害事件と言えます。 私が原告に名を連ねたのは、そうした被害に対する訴えのほか、あの暴言にこのように公的な場で異論の声を上げ抗議することがそのまま異文化の人々に対し、日本人が愚かな民族ではないこと、日本人の多くが怒り嘆いていることを伝えることにもなるからです。 「権力は腐る、絶対権力は絶対腐る」といいますが、あの暴言はまさに権力者の思いあがりによる「腐敗」そのものと言えるでしょう。それをそうさせないためには我々国民が権力者を注意深く見つめ、誤りを起こしたときにはそれを正すよう行動をするしかありません。 今回の石原暴言により私は迷惑をかけた異文化の方々に謝って回らなくてはならなくなりました。それはまるで親の犯した不祥事を子が尻拭いをして回っているようなものでありますが、今、真に必要なことは、誤りを犯した本人がそれを認め失礼をした相手、迷惑をかけた我々に対して謝罪することであります。これは我々の権力を代行すべき責任ある人間の義務といえるでしょう。 また潔く謝罪してこそ、真の日本男児とはいえますまいか。 弁明にもなにもなっていない非論理的な言い訳ばかりをのらくらと繰り返し、ただほとぼりが冷めるのを待っている石原都知事はまさに本来の日本の美学に反するまさに日本の恥であり、彼が今後もこの件について一切の訂正も謝罪もしないとなれば、これから国際人となってゆかねばならない日本の若い世代に「異文化は日本文化より劣っている」という考えばかりか「責任ある立場に立っている人間は逆にその責任をまっとうしないでもなんとかなる」という思い上がりと悪しき慣習とをも植え付けることになるでしょう。 石原都知事はフランス文化に属する人々ばかりでなく我々日本人に対しても様々な意味で、訂正と謝罪をする必要があるのです。 以上 |
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第4回意見陳述 2006年3月24日 10:00~ 東京地方裁判所第627号法廷 | ||
2006年3月24日 東京地方裁判所民事第1部合議2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 菅野 賢治 東京都立大学人文学部助教授、菅野賢治と申します。昨年2005年4月に発足いたしました首都大学東京には「就任承諾書」というものを提出せず、東京都立大学の旧制度、すなわち現在の2年生以上、来年度の3年生以上の学生たちだけを対象として、フランス語・フランス文学、ならびにヨーロッパ一般におけるユダヤ人問題、人種差別問題、植民地問題などを講じております。3年前には私を含めて12名おりました都立大のフランス語専任教員も、その後、退職や他大学への転出により、来年度には6名というところまでまで数を減らしてしまいました。2010年に設定されております旧大学の消滅時、人員配置の完成時には、それが2名にまで押し縮められることになっております。 私は、今回の訴訟のもととなった石原東京都知事によるフランス語侮辱発言が行われた、その文脈に、当時、もっとも近い立場にあった都立大仏文学専攻の一員として、第二次訴訟の原告に加わることにいたしました。今日この場では、一昨年、2004年10月、文部科学省の設置認可が下りたばかりの首都大学東京の学外サポート組織「The Tokyo U-club」の設立総会で行われた都知事の発言から、昨年2005年7月13日、マリック・ベルカンヌさんを代表として提訴が行われるまでのあいだ、いわば、この仏語訴訟の「前史」について、思うところを簡単に申し上げます。 まずは、石原東京都知事によるフランス語発言として、「数の勘定ができない」、「国際語として失格している」という二点が争点となり、マスコミでもさかんに採り上げられましたが、ここで、その発言の前後をもう一度ご覧になってください。
その上で、今回の出来事を私の立場からできるだけわかりやすく簡潔に述べてみよ、と言われた場合、私は、単純な比喩を用いてこう申し上げます。ここに、一つの病院があったとします。そして、それを統括・運営する大本の組織があって、その長に当たる最高責任者がいるとしましょう。ある時、その長に当たる人が、こんな発言をしたと思ってください。
この比喩を現実に戻して言うと、旧・都立大学で毎年数百名、延べ数で言うと千人近くの学生がフランス語を外国語として学んでおり、そして、仏文学専攻でフランス語を専門に学んでいる学生も、学部・大学院あわせて毎年50名から60名存在した、という事実がありながら、公の場ではそれが「数人またはゼロ」ということにされてしまい、その上で、そもそも「数の勘定もできないフランス語などにしがみついている手合いが反対のための反対をしている。笑止千万」とされてしまったわけです。 石原東京都知事の暴言は、多くの場合、なんらかの虚偽とセットになっております。暴言を繰り出すために虚偽があり、虚偽を虚偽として指摘することすら愚かしく感じさせるために暴言が繰り出されるという不可分の関係がそこにあります。そして、日頃から石原氏の言動をよくご覧になっている方はお分かりのとおり、自分と考え方や主張を異にする人々を「バカな手合い」と呼び、それを仮想敵として、ことごとく罵倒し、否定し尽くすことによって、自分の言い分に価値をもたせようとするのが、石原氏の政治手法であり、行政手法であり、また、文の書き手としての常套手段でもあります。これが、今までいかに多くの個人、社会集団、ならびに民族集団を傷つけてきたことでしょう。 しかも、都立大におけるドイツ語とフランス語の履修者の数、ならびに独文学専攻、仏文学専攻の学生数について、知事をはじめ、東京都や新大学のトップの側から虚偽の発言や報告がなされたのは、それが決して初めてではありませんでした。 ・2003年12月24日の記者会見における都知事発言(甲第35号証※08) ・2004年2月5日に東京都大学管理本部のホームページに示された国際文化コースの案(その後、HPから削除) ・2004年3月2日の都議会で大西英男議員に対する東京都知事答弁(甲第35号証※12) ・2004年6月8日号の『財界』での高橋宏理事長予定者の発言(甲第35号証※18) すべてこれらの発言や報告において、細かい数字の違いはありながら、ドイツ語とフランス語について学生の需要はほとんどゼロである、という主張が繰り返しなされたのでした。 これに対して、人文学部は2003年12月25日に「不正な情報操作を即刻中止するよう強く要望する」という抗議声明を出し(甲第35号証※09)、「開かれた大学改革を求める会」も、その声明(2003年12月27日)(甲第35号証※10)の中で訂正を求めています。都立大の仏文学専攻と独文学専攻は、2004年6月19日、雑誌『財界』編集部に抗議し(甲第35号証※19)、これとは別に、独文学専攻は2004年3月12日付の要望書を東京都知事、ならびに大学管理本部に送付して歪曲された情報の訂正を再度求めましたし(甲第35号証※13、※14)、仏文学専攻も、2004年10月31日、「石原東京知事に発言の撤回を求める」声明(甲第4号証)を出したのでした。これらの声明が、都知事にも、東京都の担当部局にも、またマスコミ各社にも送付されているにもかかわらず、同じ誤情報が何度も繰り返し公の場で流されるという異常事態のなかで、大切な大学改革が押し進められてしまったのです。昨年、第一次提訴の直後に行われた記者会見(甲第7号証の2)でも、石原都知事は、「調べてみたら、8~9人かな、10人近いフランス語の先生がいるんだけど、フランス語を受講している学生が1人もいなかった」として、相変わらず虚偽の発言を繰り返しております。 ここで、学校、会社、行政機関の別に関わりなく、各人、自分の所属している組織、働いている職場が、まったくもって「口から出任せ」としか言いようのない価値棄損の言辞をまさに確信犯として振り回すトップの一声で、このような手続きによって廃止、解消に追い込まれた場合を想像していただければ、今現在、東京都の大学に籍をおいている数百名の心ある教職員、あるいは、ここ2,3年の出来事をつうじて、当初の見通しにも反して心ならずも大学を去っていった(あるいは今にも去ろうとしている)数十名、百数十名の教員たちが、東京都の大学行政に対して抱いている不信感、絶望感、そして怒りをご理解いただけるのではないかと思います。同時に、日本という国は、そういう行政手法が、議会、外部委員会、第三者評価機構、所轄の省庁の設置審議会といったものによるチェック機能も働かず、ジャーナリズム本来の批判精神もほとんど作動しないまま、堂々とまかりとおる国になってしまったというところを、手遅れでなければよいのですが、いくばくかの危機感とともに再認識していただけるのではないかと思います。 そもそも、都知事発言に先立つ2、3年間、都立大の人文学部改革案策定委員会は、都立4大学の統廃合と新大学の設立に際して、組織の思い切ったスリム化はやむを得ないとしても、旧4大学の知的財産と人的資源、そして各組織の長所を最大限有効に活かしてこそ、これからの厳しい大学間競争時代に耐えうる新組織を作ることができるはずであるという、きわめて当然の考え方に立脚し、新しい組織作りと人員の再配置については、過去の業績をきちんと踏まえ、そして、いかにして現スタッフのやる気と能力を最大限に発揮して、向こう50年、100年のスパンで一体何を強みとしてやっていけるか、という点をしっかりと見据えた上で進めていかねばならない、と主張し続けておりました。そして、仏文学専攻としても、新大学の存在意義をわれわれなりに考え抜いた末、やはり、これが国際都市・東京の新大学設置であり、フランスの首都と姉妹友好都市協定を結んでいる日本の首都の学術組織の設立である以上、世界の主要言語の一つであるフランス語については、最小限の人員数でよいから、学部専門コースから博士論文の受理・審査までを責任もって担当することのできる部局を一つ抱えていてもまったく不思議はなく、社会的理解も十分に得られるはずである、という結論に達しておりました。 昨年7月、今回の提訴を報じるテレビや新聞では、あたかも都立大のフランス語教員がリストラに頑なに抵抗して、駄々をこね、それが通らずに、最終的に、威勢のいい都知事に罵倒されて潰されてしまった、というような含みの報道がほとんどであったように見受けます。しかし、われわれとしては、人文系の学科専攻、とりわけドイツ語とフランス語の外国語担当教員数について、半減から3分の1までの減という、大幅な削減案を受け入れた上で、削減分の一部をこれまで手薄だったアジア・太平洋地域の言語や、新領域の開拓に振り当てるなどしながら、旧来の人文学部の強みを何とかして活かそう、さらに発展させようという方向で、大学の刷新に現場で取り組んでいた、というのが実状です。 先に述べたとおり、話し合いの途上、われわれは何度となく、教員数と学生数のあいだのバランスについて、しっかりとした過去と現在に対する評価にもとづいた改革を求めていたわけですが、都知事や理事長予定者が公の場で口にする、あるいは東京都大学管理本部が公式の情報として打ち出してくる数値は、常に、まさに「数の勘定」の基準がはっきりとしない、故意に語学・文学系に不利に見えるような数値ばかりであり、これも上述のとおり、それに対して何度も訂正、修正を求めたのですが、無駄でした。なにしろ、当時の大学管理本部は、今回の改革に際しては、「現教員たちと協議するつもりは一切ない」と文書の文言として打ち出していたくらいです。そして、都知事本人は、「つべこべ言うと、大学を予備校に売っぱらう」と当初から言っていたくらいです。この点で、「現場の声には絶対に耳を貸すな」「不平不満は恫喝・威嚇によってねじ伏せろ」「いかに真摯な異議申し立てにも決して返答してはならない」「マスコミには見栄えのする情報だけ流して置いて、そのまま突っ走れ」という姿勢は、上意下達、見事な浸透ぶりを見せ、今回、提訴に先立つマリック・ベルカンヌさんからの公開質問状への「梨の礫」の対応にまで一貫しているといえます。 先ほど、東京都の大学行政に対する「不信感、絶望感、怒り」と申し上げましたが、それは、このようにして、都知事発言よりもずっと前から、大学改革の開始当初から、教員たちのあいだにかなり深く染み込んでおりました。ですから、2004年10月19日、「The Tokyo U-club」における都知事によるフランス語発言の報道に接した際にも、われわれの第一の反応は、正直に言って「またか!」という溜息でした。あの時、外部の方々から「あんなことを言われて、仏文としては抗議しないのですか」とメールで尋ねられたのに対しては、私は、「フランス語スタッフ一同、ここまでの愚かしさには、すっかり打ちひしがれております」と答えたことを覚えています。それほどまでに、過去2,3年の流れを振り返って、「抗議疲れ」とでもいいましょうか、「何を言っても無駄」、「数と内容の面で本当の評価など、知事と東京都に求めるだけ無駄」という諦念がわれわれのあいだには蔓延しておりました。今でも蔓延しており、これはとどまるところを知りません。 それでも、事実だけは記録に残さねばなりませんし、それまで学外からさまざまな形で都立大を応援してくださった方々に対する申し開きという意味もあって、2004年10月末日、ささやかな発言撤回要求の一文(甲第4号証「石原東京知事に発言の撤回を求める」)を日本語とフランス語で出し、都知事本人はもちろん、各方面に送付いたしました。一部の新聞のコラムやインターネット・サイトなどで採り上げられましたが、世論としての反応はほぼ皆無に近いものでした。フランス大使館をはじめ、日本においてフランス文化、フランス語圏文化を代表している公の組織からも、まったく反応を引き出すことができませんでした。それからしばらく経ち、マリック・ベルカンヌさんと「クラス・ド・フランセ」という民間の小さなフランス語学校を中心として公開質問状の運動が立ち上がったと聞き、私、ならびに都立大のフランス語の同僚たちは、さっそく賛同の署名をし、その後、一部の教員が原告、賛同者に名を連ねて今日にいたっております。それまで、「結局、この都知事発言はどこでも本当の意味で問題視されることなく終わってしまうのか」「どんな人間にも最低限備わっているはずの批判精神というものは、一体どこへ行ってしまったのか」という無念のうちに過ごしていた私は、ベルカンヌさんの提訴によって、まさに閉ざされた窓から良識の光がさっと差し込んできたような思いを味わったものでした。 こうして、過去50数年の歴史をもち、さまざまな課題こそ抱えながらも、教員スタッフの充実度のみならず、少人数教育のメリット、都民向けの公開講座の質の高さ、夜間授業の開講、女性教員採用率の高さ、あるいは外国籍の教員の無差別待遇など、ほかの大学がこれからやろうとしてもなかなかやれずにいるところを、むしろ実績として先取りさえしていた東京都立大学が、それら、かなり地味ながらも、なかなか得難い長所もろとも廃止されてしまいました。そして、受験生にも人気が高く、文部科学省の外郭組織、大学評価機構による評価でも相当高い評価を得ていた人文学部が廃止されてしまったわけです。「角をためて牛を殺す」という言葉がありますが、むしろ「牛が牛としてまともに評価されることもなく殺されてしまった」というのが、今から振り返ってみて、どうしても否定できない実感なのです。結果的に、人気学部を真っ先に潰し、優秀な人材をどんどん他大学に流出させてしまい、受験者の平均偏差値や大学院の志願者数も軒並み大幅にダウンさせ、内部においてもあらゆる面で、日々、混乱と矛盾ばかりが噴出している、この現状に鑑みますと、「これまでどこにもなかったような大学を作る」という都知事の当初からの所信表明は、実のところこういう意味だったのか、と皮肉にも腑に落ちないわけではないのです。私個人としては、今回、このような虚偽と暴言の積み重ねの上に新大学を設置してしまったことは、東京都の歴史に残る失政、悪政であったと考えます。さらに言えば、いやしくも真理の探究を宗としているはずの大学が、虚偽と暴言の訂正・撤回をどこまでも拒否してやろうという姿勢のもとで設置されたということをもって、すでにその設置自体が社会的に無効である、とさえ考えるものです。また、そのような新大学に設置認可を与え、認可に際してみずから付しておいた付帯条件が、その後、きちんと守られているかどうかチェックする素振りも見せない、文部科学省の大学設置審議会は、歴史上、取り返しのつかない過ちを犯したと考えております。 私は、2004年10月19日、新大学のサポート組織「The Tokyo U-club」で行われた都知事発言をはじめ、一連の虚偽と暴言によって、甚大なる害をこうむりました。あたかも、学生がほとんどゼロであるのに都民の血税で不労所得を得てきたかのごとく、また、国際的に失格している何かに「しがみつき」、もっぱら私利私欲のために都知事主導の大学改革に反対する「退嬰的な輩」であったかのごとく、そしてなによりも、東京都の外、日本国の外から見て、そのような低レベルの文化行政、言語教育、学術活動が行われている機関に、長年、安穏として身を置いてきたかのごとく、公の場で、都知事の口から何度も繰り返し述べられたことによって、みずからの職業に対する誇りを徹底的に傷つけられ、簡単には言葉にならない、生涯をつうじてもおそらく忘れ去ることのできない精神的苦痛を強いられました。今なお強いられております。 これについて、法的な償いを求めます。 以上 |
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第6回意見陳述 2006年6月30日 11:00~ 東京地方裁判所第627号法廷 | ||
2006年6月30日 東京地方裁判所民事第1部合2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 アニエス・マルタン 1 私は一つの夢を抱いて、6年前に初めて来日しました。現在は、通訳になるための勉強をしながら、クラス・ド・フランセというフランス語学校で、翻訳や受付などの仕事をしています。 2 日本のことをまだ知らなかった小学生の時から、私は通訳になりたいと決心していました。小学校では英語を、中学校ではスペイン語を学校で学び、その中で様々な外国語に興味を持つようになりました。私は、フランス東部のリヨン市の南に住んでいましたが、高校に進学するとき、英語やスペイン語などヨーロッパでよく使われるもの以外の言葉が学びたいと考えました。そこで、自宅からは片道3時間かかる高校で、日本語が学べることがわかり、そこへの進学を決めたのです。週末をのぞいては、高校の寮で生活しました。ここで私が初めて出会った日本語は、選択科目の第3外国語でしたが、必修の第1外国語、第2外国語の英語・スペイン語より、力を込めて勉強をしたのです。ひらがな、カタカナ、漢字など、夢中で覚えました。 3 バカロレアをとってから、1年間、日本の四日市市の高校に留学しました。ホームステイをして、学校でも家庭でも、全て日本語漬けの生活をしたことで、私の日本語は、早く上達することができたと思います。 そして、フランスに帰国して、グランゼコールの一つであるパリ国立東洋語東洋文化学院に入学しました。ここはラテン語系以外のさまざまな言語の、フランスでの最高の教育機関と言ってよいと思います。ここで厳しい日本語教育を受けながら、時々日本に戻って学び、4年生の時には、日本政府の給費留学生として、東京外国語大学に入りました。 4 その後、ずっと日本で学び続けており、国際会議通訳を目指して、現在も通訳学校に通っています。日本語・フランス語の同時通訳は、日本人はいるのですが、フランス人はほとんどいません。国連などでは、必ず、「外国語から母語への通訳」をすることが原則なのですが、フランス語の場合、日本語からフランス語に通訳できる「フランス語を母語とする人」が、ほとんどいないのです。私は、その通訳をめざしています。 5 今からちょうど一年前に、偶然、クラス・ド・フランセを知り、校長のマリック・ベルカンヌと出会いました。ご存じの通りこの裁判が始まったときでもあり、マリック校長の戦いに強い関心を持ちました。フランス人として、フランス語講師として、そして通訳の卵として、石原都知事の発言を許せませんでした。 6 実は数字というものは、多くの通訳者を共通して悩ませているものです。 現在通っている通訳学校では、私は創立以来初めてのフランス人受講生で、クラスメイト全員が日本人です。先生はプロとして高い評価を受けている現役の通訳者で、一人はフランス人、残り4人は日本人です。 クラスでは、よく数字を中心に経済ニュースを訳す練習があります。そこで気付いたのですが、日本人が70、80、90などをフランス語で言う時には一切不便、不自由を感じさせられません。ネイティブではない先生はもちろん、クラスメイトにも同じ印象を受けています。ところが、日本語の「万」「億」「兆」の単位の数字になると、それをフランス語に訳す場合も、逆に日本語に訳す場合も、クラス全員が、大変苦労をするのです。つまり、日本人にとっても、フランス人にとっても、この単位の意味を、瞬間的に理解することが難しいのです。これを身につけるために、経済ニュースを訳す、練習があるのでした。 このことは、この裁判の内容を知って、私自身日本語の数え方の難しさをあらためて考え、気がついた事です。 このように、数え方の難しさというのは、言葉というものが全て、その個性として持っているもので、すぐれているとか、おとっていると比較できるようなものではないと、いくつかの言葉を学んでいる立場から、実感しています。 7 「フランス語が国際語として失格している」という発言が持つ意味を、通訳者の視点から、考えてみましょう。石原都知事の言う「国際語」とは、「国際的に広く使われる共通語」という意味だと思われますが、国際的なやり取りが全て、たとえば英語など広く使われている言葉だけでなされるようになったら、どんな事がおきるかということです。 重要な話を、それぞれが母語ではない言葉で話し合った場合、母語に比べて、表現が限られたり、かんちがいが増えたり、自分の英語力が低いと見せないために理解している振りをしたりというような混乱が出てくる可能性があるのです。それは、コミュニケーションの質の低下を意味します。 通訳という職業は文明の起原と同時に現れ、母語のレベルでの意思疎通を実現すると共に、結果として、それぞれの言語の豊かさを守る大事な役割をになってきました。共通語を使うコミュニケーションに片寄ることは、それぞれの原語をじわじわと貧しくするに違いないと思います。 8 我々が生きているこの地球上には、話されている言葉が山ほどあります。それぞれの言葉に特徴、弱点、面白さがあります。言葉が共存しているのは素晴らしいことであり、自分の言葉の方がその言葉より良いと考える時点で、言葉だけでなく、その言葉が話されている国々の文化、歴史、国民まで否定することになると思います。このような考え方は世界人として、失格なのではないでしょうか。 このように、私を含め、世界中でたくさんの人が努力を重ねている通訳という仕事に対し、また私の母語であり、職業としても使っていくフランス語に対し、石原都知事は、大きな侮辱をされました。ぜひ誤った発言の撤回と謝罪をしていただきたいと思います。 私はこれからも、小学生の頃からの国際会議通訳への夢に向かって、この日本で学び続けていきたいと思っています。 以上 |
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2006年6月30日 東京地方裁判所民事第1部合2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 平野 具男 1 私はすでに三年前、東京学芸大学を定年退職致しました平野具男と申します。 目下のところ、市井(まちなか)で隠居生活をしております。本来の専攻はドイツの文学と哲学であり、かつての職場ではドイツ語教員を務めておりました。フランス語とのかかわりは、偶々学生時代からアンリ・ベルクソンの著作を―以来十数年間は翻訳で―愛読し、ドイツ語教師の傍ら―現在は原文のフランス語で―読みつづけて今に至っております。そのような個人的経験と一語学教員としてのささやかな見解を踏まえて、以下の論点、 まず第一、フランス語も含めて言語一般の習得とはどのようなことであるかを、 次に第二、多数者による習得は、決して不特定な行為ではなく、そもそも技術一般がそうであるように個々人がこれを体得することによってその人格にまでも関わる特定性を有すること、 この二点について思う所を述べてみます。 2 まず第一点、異なる言語の習得がいかに骨の折れるものであるかは、学生の初心にかえってこれを学び始めた者ならば誰しも身に覚えのあるところです。 当言語の規範をなす文法と語彙と語法の体系を理解し、これに精通することは必須であり、あえていえば絶対であるからです。その文法組織が―たとえばフランス語ならば、数の数え方もさることながら動詞語尾変化の組織等―いかに難解であり、習得困難であろうとも、これを身につけるには、是非もなく、真摯に学ばざるをえません。そのとき、自分の能力を超えるほどの努力を強いられ、自己の無力を思い知らされることがあっても、それをその言語規範の難しさに転化して、これを貶めるようなことでもあれば、それは却って、自らの努力の欠如を告白するようなものであります。 語学の習得は―学問一般もそうでしょうが―決して一朝一夕に成就できるものではありません。ささやかな私の教員経験からしても、言語規範は、筋の通った教授の元に、学習者はその大筋を納得するのみならず、細部に及んで個々に身につけるほかはありません。そのような努力を怠りながら、あろうことか、当の学習対象に向ってこれを罵倒している暇があるならば、名詞の文法的性の一つでも―たとえば「太陽」という名詞はドイツ語では女性だがフランス語では男性であること―覚えるのが至極当然の心得なのです。 すなわち言語の習得にとって言語規範は絶対であり、又、その自在の域に達するまでは、個々人による規範のいわば「血肉化incarnation」の努力を必須とすること、この事を第一点として申しあげます。 3 次に第二点、以上に述べた言語規範と、その習得者との関係について、すなわち一つの規範と多数者による習得の間に、じつは見過ごすことのできない特定性が存在することを確認したいと思います。 私たちは、生まれるや直ちに一つの母語を聴き取り、これを身につけていきます。そして時とともに、母語の「規範」を習得します。それは母語とする者に限らず、異なる文化、民族、国家、さらには人種や性の別を問わず、すべての人に差別なく開かれています。 とは申しながら、具体的にこれを習得するには、個々人にそれぞれ唯一つ与えられた言語脳に拠って、「血肉化・身体化」の修練を積む他はありません。さればこそ、習得された言語は各人にとって掛けがえのない所有物となります。こうみれば、万人に開かれた言語は、普遍的であると同時に、習得者個々人にとっては、きわめて特定的な存在であると申せましょう。 つまり、一つの言語を学ぶ者の全体は、一見「不特定の多数」とみえながら、じつは努力してこれを身につける個人の集合として、「特定の多数」と言い換えてよいでしょう。 フランス語に向けられた今回の虚偽の発言が、言語規範それ自体の毀損によって、同時に、これを習得する各人を毀損することになるのはこのためでしょう。我々原告はその極く一部にすぎません。フランス語を習得する世界中の人々が、仮に今すべて名乗りを挙げれば、それは無名の不特定集団であるどころか、全員が固有名をもち、各人各様にこれを体得している者たちの集合となるでしょう。 4 さて、被告は、「所沢ダイオキシン汚染野菜虚偽報道」のばあい、その報道によって生じた「被害者イコール農作物」という事実において「被害者は特定される」が、今回の発言においては、「フランス語と原告との間にはそのような関係」 はなく、すなわちフランス語そのものは「けっして原告が作り上げたわけではなく、そのような特定性もない」、と主張しています(被告準備書面1)。 今回の発言は、たしかに我々原告の誰かが作り上げた何らかの作品を特定して攻撃するものではありません。しかし、我々原告の誰しもがこれを侮辱的暴言と受け止めざるをえないのは、なぜでしょうか。 フランス語がかつてこれを使用した先人のみならず、今なお使用する人々の努力によって 「形成」された結果、今見る規範をなしている事実は否定すべくもありません。しかし見方を変えれば、フランス語を習得し使用する者たちは、逆にその規範によって「形成」され、その作用は人格の深部に及ぶことさえもあるのです。 ここで、「所沢農家に対する虚偽報道」に即して、一つ虚構の想定をしてみましょう。仮に今、何らかの農産物に対してではなく、農産物を生産するための規範となる「農業技術」に対して、これを貶める暴言が吐かれたとしましょう。個々の農家の皆さんは、生活の糧でもあり生甲斐でもあろう仕事の存在価値を、根底から毀損されたという無念の思いを抱くのではないでしょうか。そのような侮辱は、農産物の品目を特定して中傷することよりも深い傷を負わせることにならないでしょうか。それは、農民が農業という仕事に歳月をかけて習熟するほどにその一人一人の人格を形成されることになるからだろうと思われます。以上が第二点であります。 以上ふたつの意味において、すなわち第一に、言語習得の努力を積んできた者として、第二は、私の人格の一部を侮辱されたという思いにおいて、今回の発言により、私は名誉を著しく毀損されました。 5 石原氏は目下、公人として政治的要職にあり、その激務の労は察するに余りあります。又、かつては一人の代表的作家でおられた氏は、今日も一人の公人として、文人に本来そなわるべき見識を保持されているべきであろうと考えます。 ところが、氏の今回の暴言は、高い見識を有するはずの文人の口から発せられたものとは、到底思えません。しかし、これが明白な事実である以上、すでに文人たることをお止めになったからか、さもなくば、暴言であるという自覚もなく、騎虎の勢いに駆られて発せられた不慮の失言であったか、そのいずれかとしか思われません。私は、願わくば後者であって欲しいと考えます。もしもそうならば、今回の発言を速やかに撤回され、文人としてあるべき見識と誇りとを、一日も早く取り戻されますよう、願ってやみません。 以上 |
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第11回(第1回)意見陳述 2007年4月13日 11:00~ 東京地方裁判所第627号法廷 | ||
2007年4月13日 東京地方裁判所民事第1部合2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 マリック・ベルカンヌ 手短に申し上げます。 一年以上の審理を経た後に、石原氏が、フランス語を貶める発言をしたのは、本人が裁判の当初に言明していたように「個人としての資格」においてではなく、「やはり東京都知事としてであった」、などと前言をひるがえすのを見て、怒りを覚えずにいられましょうか。 かりに石原氏が敗訴になった場合、この妄言のツケを払わされることになるのは東京都民であるわけですが、このように、石原氏が、みずから長をつとめる自治体の住民のことをまったく気にかけない様を見て、怒りを覚えずにいられましょうか。 これまで石原氏は、裁判官からの問いに対して、真摯に答えようとする姿勢をほとんど見せてきませんでした。このように、石原氏が、自国の司法をないがしろにする姿勢を見て、怒りを覚えずにいられましょうか。 東京都が、都知事の人種差別的な発言を、公式のインターネットサイトに流し続ける様を見て、怒りを覚えずにいられましょうか。 近代オリンピックの基本精神は、諸民族の友好と人間の尊厳重視にあるわけですが、東京都ほど人種差別的な都市が、国際オリンピックを招致しようとするのを見て、怒りを覚えずにいられましょうか。 近代オリンピックの創始者は一人のフランス人でした。石原氏がフランスとフランス語を侮辱しながら、同時にオリンピックを招致しようとするのを見て、怒りを覚えずにいられましょうか。 裁判官の皆さま、以上が、今日、私が皆さまの前であらためて提起申し上げたい問いです。 最後に、裁判官の皆さまに申し上げます。わたしたちは、これまでに、都知事の発言が虚偽であり侮蔑であるということ、そして、それがフランス語を生活の糧にしている人々全員に苦痛を与えるものであることを皆さまにわかっていただくため、必要な材料はすべて法廷に提出してまいりました。わたしたちのもとには、世界中から支援メッセージが寄せられており、この裁判の結末は、世界の数億人の人々に関係しています。 裁判官の皆さま、どうか、人間が定めた法を越えたところに位置していると思い込んでいる、ある一人の人間によって、司法が踏みにじられることのないような仕方で、判決をお下しくださいますよう、切にお願い申し上げます。 以上 |
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2006年4月13日 東京地方裁判所民事第1部合2係 御中 陳 述 書 〔住所省略〕 三浦 信孝 私は中央大学文学部仏文科教授の三浦信孝と申します。NHKテレビや放送大学のフランス語講座を担当したこともあり、またフランス語会議通訳としての経験も豊富で、現在はその養成にあたっております。5年前からは、財団法人日仏会館の常務理事として日仏間の学術交流・文化交流の仕事にもたずさわっております。私は学生時代からフランス語で表現された文学や思想を糧にして人間形成を行なってきており、フランス語は職業人としての私の資源であり、私のアイデンティティの重要な核になっております。若いころ数年間パリに留学して以来、フランスは精神的な意味で私の第二の祖国になっています。 したがって、石原都知事が2004年10月に、首都大学構想に批判的な旧都立大学の仏語教師を念頭において、「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格しているのもむべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合いが、反対のための反対をしておる。笑止千万だ」と切って捨てたとき、私は理不尽な攻撃を受けた都立大学の同僚への同情と、地位を利用してこのような暴言を吐く都知事への怒りだけでなく、私自身の存在理由が否定されたような虚脱感をおぼえました。知事のフランス語無用論は、直接間接にフランス語教師の生存権を脅かすだけでなく、フランス語が自分のアイデンティティの核になっている人間の人格権を否定するものだからです。 知事のフランス語批判は、フランス語は役に立たない無用の長物という虚偽のイメージを流布させ、それによって都立大学からフランス語の研究と教育をリストラしようという明確な意図から出たものです。その発言はル・モンド紙などフランスのメディアでも報じられ、フランスの名誉を傷つける無教養な政治家の妄言と受け取られました。しかし、問題発言の直後、都知事を表敬訪問したパリのドラノエ市長も在日フランス大使舘も正面切って抗議することはありませんでした。わざわざ外交問題にして日仏の友好関係にひびを入れるほどの価値はないと判断したのでしょう。しかし、東京でフランス語学校を経営するマリック・ベルカンヌ氏が、フランス語を誹謗する石原発言によって職業上の誇りと名誉を傷つけられ損害を受けたとして、提訴に踏み切ったのは当然のことです。 しかし私は日本人であり、フランス語は私の母語ではありませんから、フランス語を国語とする祖国の名誉を傷つけられたとは思いません。旧都立大学の教員ではありませんから、菅野賢治氏のように直接ポストを脅かされ物心両面で計り知れない苦痛を味わったわけでもありません。では、私はなぜ原告団に加わったか。それは、このような根拠のない暴言を吐いて人を傷つける人間をいやしくも首都の知事にもつような国の国民であることを恥ずかしく思い、海外での日本の評判が落ちるのを深く憂慮したからです。石原発言は、フランス語を存在の根拠にする私のアイデンティティを否定しただけでなく、私の日本人としての最低の誇りを傷つけたのです。 私はこの3月初めからボルドー大学に客員として招かれフランスに行っておりました。折からアメリカの議会に日本の慰安婦問題を弾劾する決議案が出され、安倍首相が強制の事実はなかった旨の発言をしたことがフランスでも大きく報道され、私自身ラジオ・フランス・インターナショナルRFIから電話でコメントを求められ対応に苦慮いたしました。私は日本に絶望して国を捨てた亡命者ではありませんから、外国に行ってまで日本の悪口を言いたくはありません。しかし、過去に犯した罪について言い逃れをするような不誠実な人間を首相にもつのは、日本人の一員として恥ずかしいと思いました。フランス語を誹謗した石原発言が私の日本人としての最低の誇りを傷つけたと申しましたが、それは同じような意味においてです。 石原知事は過去に外国人を凶悪犯罪や災害時の騒擾の予備軍と見なす「三国人発言」、あるいは生殖機能を失った女性は生きていても無駄だとする「ババア発言」など、ポリティカリー・コレクト(政治的正しさ)にもとる差別発言を繰り返しており、海外では作家としてよりもマッチョな排外主義的ポピュリスト政治家として報じられています。ここでは、都知事が任命権をもつ東京都教育委員会が「日の丸・君が代」の強制に従わない教員を処分するという、憲法で保障された思想・信条の自由、良心の自由の蹂躙には触れません。ただ、石原都知事の人権無視の挑発的言動は、今日の国際的な人権レジームから見ると突出していることだけは指摘しておかねばなりません。都知事を選ぶのは東京都民であって国際世論ではありませんから、知事は海外の評判など気にかけないのでしょう。しかし、そこに落とし穴があります。 ここで注意を喚起したのは、フランス語はフランスだけの国語ではないことです。世界にはフランス語を公用語にしている国は数多く、公用語になっていなくても第二、第三の言語としてフランス語を話す人が多い国はかなりの数にのぼります。部分的にせよフランス語を共有する国々が参加する国際フランコフォニー機構 (OIF) にはなんと55カ国が加盟しており、世界には日常的にフランス語を話す人が1億8000万人います。ここには学習者の数は含みません。話者の絶対数は少ないが、知識層を中心に五大陸にフランス語話者が分布していることが、国際語としてのフランス語の特徴です。一例をあげるなら、フランス語の擁護と顕揚を任務とする保守的なアカデミー・フランセーズですら、「不滅の40人」と呼ばれる会員に、ユダヤ系はもとより、ブラックアフリカ、東欧ロシア、南米、中国出身の作家、最近では旧植民地アルジェリア出身の女性作家まで迎え入れています。もともと国境を越えたフランス語による国際協力の形として「フランコフォニー」を提唱したのは、フランスの旧植民地セネガルの黒人詩人で独立後大統領になったサンゴール(1906〜2001)です。これは、日本語の国際語化を重要な政策課題とする日本にとって、参考するに値する、言語普及の成功例ではないでしょうか。外国人を「三国人」などと言ってはなから排除してはならないのです。 知事は「フランス語は国際語として失格」と言いましたが、フランス語のプレスやラジオ・テレビのネットワークは世界に広がっていますから、国際語としてのフランス語の実力をあなどってはいけません。知事は三選を目指してオリンピックの東京誘致をキャンペーンの売りにしましたが、フランス語が英語と並んでオリンピックの公用語であることを考えれば、フランス語に対する中傷は東京にとってマイナスの宣伝材料にしかなりません。日本政府の悲願である国連安保理の常任理事国入りは、侵略戦争や植民地支配の過去を反省しない日本にはその資格はないとする中国、韓国の主張もあって実現しませんでした。ところがフランスは、日本の常任理事国入りに早くから強い支持を表明してきた国です。そのフランスのみならずフランス語の国際共同体を敵にまわすような挑発的言辞を吐いたことは、石原知事の国際都市東京のイメージ戦略にとってマイナスなだけでなく、憲法前文にうたう「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」日本の国益にとっても大きな汚点になっています。海外にも翻訳紹介されたミリオンセラー『NOと言える日本』(1989年)の著者に、私はアメリカからの不当なバッシングに立ち向かうパトリオット(愛国者)を見ようと思ったのですが、今日、その人権無視のアロガントな言動は尊大なナショナリストのそれとして受け取られ、「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」日本の評判を著しく傷つけています。 フランス語は18世紀にはヨーロッパ中の宮廷で話される共通語でした。19世紀を通して国際条約はフランス語で認められました。英語が初めてフランス語と並ぶ条約正文とされたのは、第一次大戦後のヴェルサイユ条約とされます。国際連盟は英仏語が公用語でしたが、第二次大戦後できた国連では戦勝国の英・仏・露・中にスペイン語とアラビア語が加えられ今日にいたっています。世界語の地位を英語に譲り渡したフランス語は、普遍的な文明の言語というノスタルジーは捨て、フランス語を維持するためであれ「言語と文化の多様性」を主張しています。「言語と文化の多様性」は、一極的世界像に対し多極的世界像を、「文明の衝突」に対し「文明間対話」を唱えるフランス外交のキーワードにすらなっています。今世紀に入り、ユネスコは「文化的多様性」に関する世界宣言(2001年)と国際条約(2005年)を相次いで採択しましたが、その推進役になったのはフランスとカナダであり、フランスコフォニー(仏語圏)とEUもこれに賛同しました。文化的多様性条約に最後まで反対したのは、アメリカとイスラエルでした。 かつて「文明化の使命」の名のもとに、自国の言語と文化を植民地に押しつけたフランスが、ポスト植民地時代の世界にあって言語と文化に優劣はなく、すべての言語と文化の尊重が必要だという認識に到達するには、大変な知的努力が必要だったと思います。私はフランス研究者ですから、「自由・平等・友愛」の共和国の標語に惑わされ、「人権の祖国」フランスにおける差別や格差の現実に蓋をしているわけではありません。外に向かって多言語主義を唱えていながら、「欧州地域語・少数言語憲章」を批准していないことを重視してもいます。しかし自文化中心の「普遍性」から多文化共生の「多様性」に原理的転換をはかってきたフランスの知的努力には敬意を表します。日本においても、経済効率だけを重視する画一的思考ではなく、人間中心の豊かな多様性の思考を育むためにこそ、フランス語教育と人文主義的教養が必要だと考えます。根拠もなくフランス語を貶めた石原都知事の放言は、ユネスコの条約にまでなっている「文化的多様性」の尊重という世界標準に照らして恥ずかしい発言であり、再び憲法前文の言葉を借りるなら、「自国のことのみに専念して他国を無視する」偏狭な自文化中心主義の表現です。 以上、「フランス語は国際語として失格」という石原都知事の発言は事実無根の中傷であり、フランス語を拠り所にして生きる人々を侮辱して、その生存権を脅かし、人格権を否定したのみならず、「国際社会で名誉ある地位を占めたいと思う」日本の名誉と国益まで損ねるものであることを申し述べました。衷心より発言の撤回と真摯な謝罪の言葉を要求する所以です。 以上 |
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第12回(第2回)意見陳述 2007年6月22日 11:00~ 東京地方裁判所第627号法廷 | ||
陳 述 書 2007(平成19)年6月22日 東京地方裁判所 民事第1部 合議係 御中 〔住所省略〕 永井 典克 成城大学法学部准教授、永井典克と申します。フランス語とヨーロッパ文化史の授業を担当しています。 私は、外国語を学ぶことは、ただ単に言葉を学ぶことではなく、他の言葉と文化を通じて、私たち自身の言葉と文化を振り返るという目的もあると授業では教えています。どんな言語・文化も単独で存在してきたのではなく、他の言語・文化と交流する中で成立したものだからです。実際、単語一つの歴史を見るだけでも、文化の流れを理解することができます。 日本とフランスの関係において言えば、フランスの文化は、思想、芸術、文学、音楽の分野で私たちに影響を与え、また、現行民法にボアソナード起草の民法典が影響を残しているなど、私たちの生活に根付いたものになっています。 言葉の上でも、日本語は明治の開国以来に貪欲に外国語を吸収してきましたし、最近でもカタカナ言葉を増やすことにより語彙を増やし続けています。当然、その中にはフランス語起源のものも多く含まれています。日本語や日本文化のことをよく知るためにも、外国語を勉強する必要があります。外国語は鏡であり、そこに日本が映し出されているのです。他のどんな言語であれ、それを蔑むような発言は、外国語を吸収し拡大してきた私たちの日本語の否定につながりかねない危険なものでしかありません。 フランスでは1635年に、フランス語を制定し、それに規則を与え、誰にでも理解できるものにすることを使命とする機関のアカデミー・フランセーズが作られました。フランス語は、それ以来、400年間、殆ど変わっていません。政権は何度も変わりましたが、王であれ、皇帝であれ、大統領であれ、アカデミー・フランセーズを保護してきました。フランス人は言葉と文化を受け継ぎ、次の世代に渡していくことに誇りをもっているのです。現在でも、情報技術関係などの新しい分野の単語は、アカデミーにより吟味され、フランス語化されてから取り入れられます。 このようなフランス風のやり方と、日本のようにカタカナを用いて表記し外来語をそのまま吸収するというやり方と、どちらがより優れているということもありません。日本のやり方も、そのおかげで私たちが豊かな語彙を持つことができたと言う点で優れているし、フランスのようなやり方もまた文化を守り続けるという点で優れている。 お互いのやり方を否定するのではなく、認め、お互いの良い部分を吸収する。それがこれからの「対話」を重んじる国際社会の基本ルールなのではないでしょうか。 石原都知事はフランス語は国際語として失格だと発言しましたが、国際語とは何でしょうか。フランスが加盟しているEUには、現在27カ国が参加し、23の公用語が使われています。会議のために一日、700から800名の通訳が働いていると言われています。それだけの労力を払って、EUは、このような世界でも他に類を見ない多言語主義を実践しているわけです。国家間の会議で使われる言語を国際語というのであれば、今、フランス語も、ドイツ語も、英語も、その他の言語も、同じ資格で国際語なのです。 この点からすれば、国際社会の一員として日本も、日本語が国際語であるよう努力すべき時期に来ていると思います。そのような状況下で、ある言語が国際語として失格しているなどという都知事の発言は、現在の国際情勢を正しく理解したものではなく、許容できるものでもありません。 繰り返しになりますが、自国の文化を誇りに思い、同時に他国の文化を尊重する。そして、互いの文化の大切さを学ぶ。フランス語に限らず外国語を学習することの目的はまさに、そこにあります。他国の言葉を蔑み、その機会を奪う権利は何人にもありません。文化の大切さを積極的に守るべき立場の人間が、「フランス語は数を数えられない言語である」であるとか、「国際語として失格である」という根拠のない発言をし、フランス語に関わる全ての人の名誉を傷つけておきながら、未だ発言を撤回していないということは理解に苦しみます。都知事には、公人である自分の発言がどのぐらいの影響力があるかを自覚されていないのではないでしょうか。速やかに不当な発言を撤回し、謝罪していただきたいと存じます。 以上 |