違いが分からない都知事のフランス語蔑視発言
小畑精和
明治大学政治経済学部教授
(フランス語・カナダ文化研究担当)
原告
T 都知事にエスプリを効かせた抗議
U 多様性を認めることの重要さ
V 都知事のサイト
要望書のコピー
7月26日(火)に石原都知事に要望書を提出してきた。首都大学東京の設立支援の席で知事によってなされた、「「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合いが反対のための反対をしている。笑止千万だ。」(毎日新聞10月20日)とする事実誤認に基づく発言に抗議するのが目的だった。マスコミ各社に連絡しておいたところ、予想外の反響があり、記者会見をすることになり、テレビや新聞で幅広く報道されるにいたった。
この発言のあった昨秋以来、公開質問状が出されたり、ベルカンヌさんたちから告訴されたりしても、石原は「(文句があるなら)フランス政府に言ったほうがよい」だとか、「タヒチでは、原住民たちは実に合理的にフランス語を変えて使っている。セッタント、ユイッタントって」などと暴言を吐き続けている。聞く耳を持たない、理屈が通じない相手にまともに抗議してもしかたがないので、「エスプリを感じてほしい」とプレゼントとしたことがマスコミ受けしたのだと思われる。
週に1、2回しか登庁できないほど忙しいらしいので、夏休みの間に(実際知事は休暇中だった)フランス語で勘定することを学習してもらおうと、教科書と辞書と電卓を贈ってきた。さぼらずに毎日コツコツ勉強することを奨め、難しければ個人教授もすることを申し添えた要望書を持参し、「都民の声」課の職員に都知事に渡すよう依頼してきた。
言語はそれを話す民族、文化、生活と密接に結びついている。ある言語を蔑視することは、それに関わっている人全体を愚弄することである。勘定の仕方を含めて、言語は多様であり、違いを認めることが国際理解の第一歩であることを同時に学んで欲しいことも書き込んだ。
実際あれほど多くのテレビ局が「都民の声」課に押し寄せて来ているとは思わなかった。記者会見で話すことは準備していたが、手渡す時はしかるべき部屋で報道陣なしでやると思っていた。
ところが、要望書と贈り物を渡す場面を撮らないと話にならないと、テレビ局が言う。都庁側は、記者会見はともかく、手渡し場面を撮影するなんて話は聞いてないと言う。撮影お断り。すると、ある局が、エライ剣幕で、「なぜ、だめなのよ」と一喝。矢継ぎ早に「誰の指示ですか」、「撮られてまずいことがあるんですか」と各局から質問が飛ぶ。こっちは撮られてまずいことは何もないが、都の職員はおたおたして、上司を呼びに行く。報道関係者のオシの強さ、あっというまに交渉成立かと思っていたら、責任者が出てくるやいなや、相談なしでさっさと場を作りはじめる。文句があるなら言え、って感じ。
各局が協力して、「都民の声」課ロビーの椅子・ソファー・衝立を動かして、あっというまに俄か応接間の誕生。その間、責任者は、「都民でほかに相談に来ていらっしゃる方もいるのでお静かに」と言ったきり、あとは静観。結局、テレビ局ペースで、別室ではなく、カメラ、レポーターが勢ぞろいしたロビーで手渡し。
儀式めいたことは考えていなかった。しかし、何か言って渡さなければかっこうがつかないだろうから、「要望書」のコピーを読みあげることにした。すると、と職員が「それは、ちょっと・・・」と止めにかかる。「駄目なんですか」と言いつつカバンから取り出し始めると、無理に止められはしなかった。
よく考えればテレビ局は、最初からシナリオができていて、それに合った「絵」が必要なのだろう。知ってはいたが、実感した。つまり、新聞は「明治大学のフランス語教員たちが知事へ贈り物を渡しに来た」ですむが、テレビでアナウンサーがこんなことを言ってもしかたがない。「ヤクザみたいな教授が嫌がる都庁職員に無理やり渡しに来た"絵"」が欲しかったのであろう。
石原発言の本質は、「フランス語で数が勘定できるか」といったことに留まらず、もっと別なところにあるのに、問題が矮小化されてしまう。それがテレビの怖いところである。経営効率だけで大学を運営したらどうなるか、企業と学はいかに連携すべきか、問題提議になればと思う。また、市場経済社会の中での大学の位置づけと同様に、都知事に事実誤認を認めてもらうことも本質的なことである。両方の問題は絡み合っている。首都大学の設立に関してなぜもっと様々な人の意見を聞き入れられなかったのだろうか。違いを認め合うことの重要さをこの機会にぜひ石原都知事に理解してほしい。
そもそも数を勘定できない言語などない。さらに、計算は数字でするのであり、数詞でするのではない。計算を漢数字でする日本人はいるだろうか。たとえば123,456,789,012を瞬時に「一兆二千三百四十五億六百七十八万九千十二」と読める日本人は何人いるだろう。読めなくても計算するにはほとんど無関係だ。確かに四桁区切りで勘定する日本語は三桁区切りの国際表記を読みにくい。だから日本語は国際語になれなかったのだろうか。
なぜ、三桁区切りにするようになったか。まず、それは数字を横に並べて桁が繰り上がっていく方式のアラビア数字あってのことだ。こんな方法を編み出したアラビア人はすごいし、それを可能にするゼロを発見した古代インド人もすごい。次に、それは人間の目が瞬時に判断できる個数が三だからだと考えられる。囲碁をする人は、目の勘定をなるべく早く正確に行なうために、三目単位で数えるそうだ。札束を扇形に開いて数えるときも三枚ごとがいいらしい。フランス語などの西洋語はこの三桁に合わせて、千(mille)を単位に、百万(million)、十億(milliard)と造語していった。だから三桁区切りで数えやすい。西洋語に合わせて三桁区切りになったのではない。
フランス語では、76は「六十に十六」(soixante-seize)と言う。それは十進法に慣れたものにとって多少複雑かもしれないが、六十進法やその基である十二進法の名残なのである。十進法はそれほど合理的なのだろうか。人間の指が両手で十本だというだけが、十進法の根拠である。コンピューターは十進法で計算していない。3でも2でも割れる十二進法のほうが便利だし、○×式の二進法がシンプルで、時代に適しているとも言える。
日本語は助数詞が複雑なので国際語になれなかった、わけがない。馬は一頭、二頭・・・宝くじも一等、二等・・・マンションも一棟、二棟…同音異義語も多いので国際語になれなかったわけでもない。同音異義語をカバーする術をわれわれは知っているし、助数詞の豊富さは文化の豊かさの一面でもあろう。
英語はシンプルだろうか。動詞の活用が少なく文法は簡単そうに思えるが、学校で悩まされなかった人は少ないだろう。綴りにいたっては、アクセントを含め「自由度」が高く、発音を知るために辞書が必要となる。フランス語に限らず、大概の言語は、読み方は英語にくらべずっとシンプルである。石原発言は、eight
をeitと書いたほうがいい、と言っているようなものなのである。
なお、先述の「セッタント、ユイッタント」は、ベルギーなどで使われているもので、タヒチ先住民の工夫ではない。
言語にはそれぞれの論理がある。どれが優れているとかの問題ではなく文化の違いなのである。だから世界はおもしろい。お互いの違いを尊重するのが国際理解の基本である。言語は民族、文化、生活と密接に結びついており、ある言語を蔑視することは、それに関わっている人全体を愚弄することだ。言語に関わっている人とは人間全体のことである。
「三国人発言」や「ばばぁ発言」にも見られるように、事実誤認にもとづいて人を傷つけて、平気でいられるような人だから、それまでの話し合いを無視して、勝手な構想を「時代のニーズに合わせた実用性重視の新大学」と言葉で飾り、ごり押しできるのであろう。
ところで、今回の抗議に際して、石原都知事について調べるうちに、ある人がおもしろいサイトを紹介してくれた。
一つは、今秋逗子に建てられる「太陽の季節」の文学記念碑のページ。
(http://www.zushitabi.jp/taiyo/runner/)。
「太陽の季節」を自ら訳したのがSaison
de la soleilとはそれこそ笑止千万。太陽は男性名詞なのでSaison
du soleil。まさか文学記念碑に彫りこまれないとは思うが、ホームページには堂々と書いてある。都知事はランボーやリラダンなどフランス文学に親しんだそうだが、フランス語はやはり苦手なようである。
もう一つは「宣戦布告」という石原慎太郎のホームページ。
(http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no33.html)
ここに産経新聞に掲載された「日本人の感性」という文が転載されている。そこに披瀝されているのも素晴らしく支離滅裂な感性。国境を越えた感性の交流を称えながら、結局「日本の感性は素晴らしい」と、国に囚われた結論しかでてこない。日本の感性も素晴らしいが、感性が素晴らしいのは日本に限ったことではあるまい。
また、石原都知事は、カキフライを日本人の感性と結び付けて絶賛している。トンカツやアンパンなど、確かに他所から入ってきたものを自分流にしてしまう日本人の感性は優れている。が、カリフォルニア巻きを生み出したアメリカもすごいし、世界中の食材を中華味にしてしまう中国人もさすがだし、イタリア料理に欠かせないトマトや、フランス人の大好きなフリット(フレンチフライ)のジャガイモはアメリカ先住民のおかげであるし、いったい石原は何が言いたいのであろうか。
この文はだらだらした自己宣伝が散りばめられていて、読むに耐えないが、どうやら首都大学のデザイン系学部設立のことが言いたかったらしい。デザインと機能、形式と内容が表裏一体であることは、常識であろう。システムデザイン学部を作るのはいいが、こんなわけのわからない理由からではあるまい。デザインが実用と結びついていることは素人でもわかる。自慢話のためにヌーヴェルヴァーグだとか、バウハウスうんぬんなんていうから、デザインって、役にたつかどうか分からない実用性に乏しいものかと思ってしまう。だから大学で研究する必要があるのだろう、企業ではお金にならないし・・・って言いたいのであろうか。彼の思考にはとてもついていけない。
※なお、この文は小畑が季刊「現代の理論」2005年夏号(7月10日発売)と、「千年紀文学」57号(2005年7月31日発売)に書いたものを基に、加筆修正したものである。
要望書のコピー
東京都知事 石原慎太郎殿
2005年7月26日
明治大学フランス語担当専任教員有志
1. フランス語で数を勘定できることを夏休みに勉強してください。
2.
そのためにフランス語学習セット(教科書・辞書・電卓)をお贈りいたします。
3.
勘定の仕方を含めて、言語は多様です。違いを認めることが国際理解の第一歩であることを同時に学んでください。
暑さもひときわ厳しくなってまいりました。いかがお過ごしでしょうか。
さて、われわれ明治大学フランス語担当専任教員有志は、貴殿による「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格している」とする発言に対して驚き、また少なからず傷ついております。貴殿が事実誤認を認めて、訂正・謝罪することを期待しておりましたが、残念ながら、この発言のあった昨秋以来いまだなされていません。
そこで、夏休みの間に、フランス語で勘定することを学習していただきたく、教科書と辞書と電卓をお贈りいたします。さぼらずに毎日コツコツ勉強することをお奨めします。難しければわれわれが個人教授いたしますので、下記の連絡先にお問い合わせください。
言語はそれを話す民族、文化、生活と密接に結びついています。ある言語を蔑視することは、それに関わっている人全体を愚弄することではないでしょうか。勘定の仕方を含めて、言語は多様です。違いを認めることが国際理解の第一歩であることを同時に学んでください。
フランス語について事実誤認に基づいた発言がなされたとするならば、われわれは看過することはできません。以上、よろしくお願い申し上げます。
明治大学フランス語担当専任教員有志
飯田年穂、岩野卓司、G.フロランス小川、小副川明、小畑精和、川竹英克、
小島久和、瀬倉正克、高遠弘美、萩原芳子、原島恒夫、他2名(氏名非公開希望)
(連絡先:明治大学政治経済学部教授 小畑精和
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